無信仰もある意味「信仰」!わがまま信仰のススメ

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こんにちは。弥津です。

みなさん、神様仏様を信じていますか?

今回は、無信仰」でも立派な「信仰」だと思う、私の勝手な持論をお話させていただきます。

ちなみに、私の宗教心ですが・・・基本的には『無信仰』です。


長続きしない性格もたたって、お祈りの習慣はほとんどありません。

実家にある仏壇にはたいして手を合わせる事もなく、近所にある神社にも行きません。初詣にも行く年と行かない年があるくらいです。


それは、なぜなのか。

私の人生自体、「神に救われた」と感じる機会が少なかったからかもしれません。


不幸な出来事の積み重ねで今まで来たようなものだったので、何か大きな力による『御慈悲』を感じた機会はなかったのです。


それでは、その何も信じないといった思考は『無宗教』として寂しいものなのでしょうか?

私個人の考えではありますが、『無信仰も立派な信仰』であり、それで心が安定するのであれば問題なしだと思うのです。

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神仏は誰のものなのか

『宗教』と聞くとあまり良い印象を持たないのは私だけではないと思います。

ケアマネとして多くの高齢者に関わってきましたが、新興宗教を熱心にか、あるいは強引にか・・・信仰することによって大金をはたいている人をみかけます。


生活が困窮してまで信仰する宗教っていったい何なのか。

それで心が豊かであればいいのですが・・・飲食を削ってまでもお布施やグッズの購入費にあてる姿には違和感しかありません。


それに、宗教感などの違いがもとになって起こる、世界の紛争。

人を幸せにするはずの『信仰』が狂気となる様子にも違和感だらけです。


果たして、神や仏を信じる事って何のためなんでしょうね。

宗教も一種の「需要と供給の世界」なのかなと思います。


心が豊かになる、あるいは死の恐怖が和らぐ。

このような効果を徳の高いお話や祈り、集会、道具などによって供給するのが宗教者だとすれば、それを欲しいという人がいる(需要)。


ある意味、お金をメインとすれば商売としてなりたつんですよね。

このような感じになると、『経営している人のための宗教』になってしまいませんか?


貢ぐことで心が満たされるのであればそれでもいいでしょうが、「神や仏を自分勝手に一人占めしたい」と思う私としては、到底信じられない世界なのです。

無理してまで信仰を持つことに意味はあるのか

私の思う神仏は、お金をクレクレ求めるものではないと思うのです。

そもそも、「何かくれないと良い事起こらないぞ」という事自体が何なんだ?!って感じです。


それでも、神でも仏でも人でも、何かをお願いするのに「タダはないだろ?!」という考えも一理ありますよね。


お金がある人は、それを差し出す余裕があるんでしょうから、それでお願いすればいい。

その一方で、お金のない人は他の代わりのものを差し出せばいいようにも思えます。


それなのに、お賽銭やお布施がお金に限られるようになっているのはどうなんでしょうか?

大昔とは違い、『何でもお金主義』になった今の常識が「お礼はお金で」なんですよね。


「宗教だって『経営』は必要」・・・そんな意見も理解できます。

でも、私のようにお金がない人は、金銭が出て行くことには抵抗がある。


それじゃ、信仰を持てない?

無理してお布施や玉串、献金を用意しないと神、仏に祈る権利はないのか。


そんな「無理」をしてまで神や仏にお願いしてどうするのでしょうか・・・その後の成果が約束されているわけではないのに。

と、貧乏人の私が勝手なことを考えている次第です。

「わがまま信仰」のススメ

それでも、何かを信じて、そしてときには、何かに祈りながら困難を乗り越える糧にしないとやっていけない状況もある。

でも、信仰を得るのにはお金がかかるという現実もある。


それでは、どうすれば信仰を持てるのでしょうか。


私の考えとしては、世の中にある『宗教』は「他人の神様(仏様)」だと思うのです。

他者が創りあげて始めた宗教であって、本来は「私の神様(仏様)ではない」というのが私の昔からの見解。


私の場合、会ったこともなければ、存在を感じたことのないものを信用できない。

それならば、自分が過去にその『恩恵』を感じたものに、何かのパワーを貰いたいし、感じたい。


ようするに、私がお世話になった亡き祖父母の姿と神とを重ねて考えるのです。


私が亡くなった祖母に向かって物事が上手くいくようにと祈ることは、それだけで『信仰』だと思います。

それで、心が穏やかになりますし、行動を起こす原動力にもなります。


そこには、謝礼も必要なければ、事前のお布施や玉串、献金も必要ありません。

名づけて、『わがまま信仰』

お金を捧げようが、祈りを捧げようが、成果が補償されるものではありません。

それならば、無理をせずにわがままに、自分の心底信用できる『存在』を創りあげて信仰した方が有意義だと思うのが、私の考えです。


ある意味、バーチャルなものを信じるのが信仰だと考えれば、人のような見た目の神、仏でなくてもいいのかもしれません。

アニメキャラを神と信じて信仰するのもありでしょう。


また、「神なんていない!!」と信じることも、ある意味では『信仰』です。

だって、いないと信じているのですから。


信じて心の支えや行動の糧になるのであれば、無信仰も立派な信仰です。


既存の神仏を信じることにとらわれず、もっとフリーな形で信仰を持つようにすれば、より一層に心が穏やかになると思います。

何を信じるにしても、自分の余裕を奪うものでないかを考えながらやっていきましょうね。


それでは。
勝手なことを言いっぱなしの弥津でした。