疑う方が悪いのか、疑われる方が悪いのかについての私の考え

こんにちは、弥津です。

「何も悪い事してないのに、なぜか自分が疑われる」時ってありませんか?

「普通にしているのに、いつも自分が何かしたと疑われる・・・人を一方的に疑う側にも問題があるんじゃないの?」

理不尽な疑いをかけられると、こう思いたくもなりますよね。

では果たして、疑う方が悪いのか疑われる方が悪いのか

この記事では、お互いの生き方の認め合うことの大切さを学ぶことができます。

私はケアマネジャーとして多くの高齢者やそのご家族と出会ってきました。

ときにはこちらの話を一切信用しない、慎重な方もいます。


また、仲間の話だけでは安心できず、自らで多くの人に質問しまくって確認しないと気が済まない方も。

私たちの答えを信用してくれていないと感じて淋しいものです。


こちらとしては真剣に答えているだけで「騙そう」なんて怪しい考えは何もないので、疑われているようで不愉快に思いますが・・・。

でも、他者を信用しない人を、本当に「失礼なやつだ」ってことだけで済ませていいのかと疑問に思うのです。

疑うにもワケが当然あるのだろうと感じた私でした。

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疑うにはワケがある・・・

人であれば、誰しも『防衛本能』を持っていますよね。

防衛本能の強弱は、個人差あり。


防衛本能の強弱は「生まれつき」ではなく、どういう経験を積み重ねてきたのかによるところが大きいですよね。


騙されたと感じた経験が多ければ、疑いやすくなると考えられます。

ぎゃくに、人に騙されたと感じる経験が少ない人は、すぐに信用してしまう傾向があるかもしれませんね。


この双方には、共にメリット、デメリットがあります。

疑いやすい人は騙されにくいが、人と仲良くなりにくい。

疑わない人は騙されやすく、人と仲良くなりやすい。

こうやって見ると、相反する傾向があるようにも感じますね。


では、人から好かれやすい『疑わない人』は『善』で、人から敬遠されやすい『疑う人』は『悪』なのか。

生き方は人の数だけあると考えれば、疑う人の心理も理解し、一概に「失礼だ」と悪者扱いしない配慮も必要なのでは、と思うのです。

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疑うようになったのは誰のせい?

疑いやすい人の言動を非難することは、その考えに至った過去の経験を非難することになる・・・。


ようするに、相手も人生、あるいは相手そのものの存在を非難することになることと同じ。

人の思考・思想は過去にどんな影響を受けて来たかによるところが大きいので。

人間不信になる人は、ある意味で他者からの攻撃に防御壁を築いて身を守る手段。

これは、人によっては生きる為に必要な道と言えます。

責めるべきは、疑いやすい人を作るきっかけとなった人や経験たち。

疑いやすい人を責めるのは、お門違いなのかもしれませんね。

疑う方が悪いのか、疑われる方が悪いのかについての結論

何が悪くて何が悪くないのかをあえて挙げるなら、疑う人と疑わない人両方とも「生きる為に必要な術」として活用しているだけであって『善』であると考えます。

その反面の『悪』としては、「その個性を認めずに非難する態度」となるでしょうか。

ようは、疑いやすい人であろうが、疑わない人であろうが、相手を根拠なく非難して傷つけるのはアウト。


疑うなら自分の心の中だけで疑えばいいし、相手を傷つけないような言葉を選ぶ配慮は必要なのです。


疑わない人は自分を信用しない人に対して「失礼だ」なんて面と向かって非難せず、心の中で治めておく。


他者の生き方や個性を態度に出して非難することこそ、人との関係性を崩す大きな一因。

疑う、疑わないのどちらが正しいという判断されたところで結局が意味がないことが分かりました。

疑うことで正しい判断を見つけて先に進む生き方もありだし、疑わずに人への信頼を基本にして生きる道もあり。

大問題なのは『人を疑う生き方』、『人を疑わない生き方』をナンセンスだとそれぞれで非難しあう心なのかなと思うのです。

それでは。
以上、弥津でした。

【俺が信じられるのは酒だけだ! by 弥津】

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