他者に批判的だと自分の本当の目的が分からなくなる法則

2019年11月4日

こんにちは。他者の言動が気になって仕方ない弥津です。

今回は、何かに取り組む際には、「目的を明確に意識する事が大切」というお話をさせていただきます。

本来、何か学ぶ為にその場所に行っているはずなのに、集中力を欠いてしまう事ってありませんか?


その集中力を欠く原因は、『他者批判のなまざし』だと私は思います。

自分の学びを阻害する他者への厳しい目。


自分に集中するために、他者への批判的な考え方を見直しましょう。

図書館は高齢者の休憩所だという偏見

私の通勤途中、毎日必ずある高齢者に出会います。


その方は、開館時間に合わせ、元気に自転車を漕いで公営の図書館に通っています。

私も同じ図書館を利用するので、その方を時折見かけます。


どこの公営図書館も似ているかもしれませんが、高齢者の姿をよく見かけますよね。

図書館が「高齢者の休憩所」になっていると揶揄されることがあるくらいです。


私も高齢者の数が多いのは実感していますし、本を片手にウトウトしている高齢者を見ると、休憩所という表現も間違っていないと思うことがあります。


そのうちに、図書館が高齢者に『占領』されている・・・高齢者は家にいても暇だし、暑いし寒いしで、それをしのぐため目的であって、本を読みに利用しているわけではないんだろうと考えるようになった私・・・。

高齢者支援の仕事をしていながら、いつしか高齢者を図書館の邪魔者扱いのなまざしで見るようになっていました。


そうなると、私自身は本を読む目的で行っているはずなのに、その場に落ち着いていることができず、足早に図書館をあとにする事が多くなり・・・。


しかし、先日ですが、前述の毎日図書館に通うおじいさんが、机について何かを読んでいる姿を見かけました。


通りざまに何気に目をやると・・・何やら分厚い辞書をめくりながら、ノートに必死に書き写している!


それが、何の目的なのか分かりません。

しかし、この方にとっては図書館はただの暇つぶしの場所ではなく、学問の場であることは間違いのない事実だと感じました。


毎日、自転車で図書館に来ることは、暇つぶしではなく、まさに『通学』なのでしょう。

一方、私はというと、図書館を利用する高齢者に対しての批判の目が邪魔して、その場の集中力を欠いている・・・偏見によって、自分の学びの機会をなくしていると言えるのです。

宗教は金の亡者としか思えない私

学びにといえば、江戸時代は学問を教える場を『寺子屋』と呼んでいたことをご存知ですか?

寺子屋とは、元々は寺院で学問を教えていた事に由来する名前です。


昔は寺院が人々の生活の中心にありました。

学問についても寺院の役割は大きく、お坊さんが庶民の知識や教養を身につけるために学を提供していたのです。


このように、庶民に欠かせない存在だった寺院ですが・・・私は、今のお寺にあまり良い印象を持っていません。

最近の寺院は利益追求に走る傾向が目立つからです。


納骨堂を作るために檀家に高額請求するところも見受けられます。

また、高級外車を乗り回すお坊さんも目にします。

その件はテレビでも取り上げられ、金の亡者化しているのではないかという印象を持つきっかけとなっています。


しかし、これも私の余計な雑念かもしれません・・・。

実のところ、そんな私は元妻の影響で、新年に厄除寺でお札をもらうことが習慣になっています。


一旦習慣にすると、行かないと何か不安になるんですよね・・・なので、今でも毎年子供と出かけます。


でも、元々寺院に対して悪い印象しかない私ですから、お坊さんの法話なんで上の空。

祈祷とお札があればそれでいいと思っていたのです。


ですが、今年の祈祷の際、お坊さんから仕事は順調にかと尋ねられました。

そうでもないという返答をしてしまった私に、お坊さんはこう言葉をかけてくれました。


「無駄な経験はひとつもないですよ。自分に貯まっている力を信じ続ければ上手く行きます」と。

自分自身を疑っている、今の私では何も達成できない・・・そう気付いた瞬間でした。


寺院やお坊さんへの偏見で、助言をもらう機会をなくしていた私。

今までのお詣りの時間を無駄にしていたようで後悔した経験でした。

余計な他者批判を抜きにして学びに集中せよ!

図書館は年寄りの暇つぶしの場。

寺はお金を貯め込む怪しい場所。


そんな『他者批判』の目を持ったまま、学びの場に足を踏み入れていた私。

その2つはまぎれもなく、共に学びの場しての機能を失っているわけでも何でもない。


私が何も得る事ができないと勝手に諦めていただけなのです。

しかし、本当にいやなら行かなければいいわけで。

それなのになぜ行くのか。


批判思考を持っていながらも、そこに行く理由は、今より1つ先に進んだ心や知恵を得たいという期待があるからです。

なんだかんだ言っても、そこにそれがあると思っているから『期待』しているのです。


利用する人によって、図書館も寺院も知識、教養の泉となる。

肝心なのは、そこを利用する人の心なのです。


私のように、いかがわしい目線で見ること自体が、無学の証拠。

このように、他者への批判的思考や偏見を持っていると、その場に行く本来の目的を見失うのです。


批判意識を心奪われることなく、自分が得たいものを明確にして、それに集中すればいい。

他者に目を向ける前に、自分がどうあるかに目を向けるべきですね。



それでは!
以上、弥津でした。

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