「長生きしたからもう充分やろ」という家族や高齢者支援従事者に物申す

2019年10月31日

こんにちは。生きる恐怖より、死ぬことの恐怖の方が勝っている弥津です。

私の仕事はケアマネジャーです。毎日、高齢者の方の相談に対応し、ときにはその生死のハザマに出会うこともあります。

今回は、そんな高齢者の方々の「寿命に関する価値観」について、勝手な意見をお話させていただこうかと思います。

毎日、さまざまな高齢者の「変化」に関する情報を耳にし、その状況の改善に向けての対応をするケアマネジャー。

高齢者の方々は、「体調が悪くなった」、「転倒して怪我をした」、「入院した」など、多くの「変化」に直面します。


なかには、状態が急変し、自宅や入院先でそのまま帰らぬ人になるケースも多くあります。


そんなときに、その方が80歳以上であった場合、「80年も長生きしたんだし、充分満足だろう」なんて言う家族や高齢者支援者を時折目にします。


しかし、本当に長く生きていれば、亡くなる時が訪れても「満足」なのでしょうか?

亡くなりゆく人の心境を推測すると、私は決してそうは思わないのです。

私の祖母はどう生きたかったのか

親からの愛情を得られなかった私としては、祖父母は「命の恩人」とも言えるものでした。

親から受けるストレスに耐えられたのも、祖父母の存在があったからだと思っています。


そんな敬愛する父親方の祖母は、私が高校生当時に重い脳梗塞で寝たきりとなり、鼻腔栄養で「ただ生かされているだけの状態」となってしまいます。

声をかけると、顔をしかめて、泣いているのか笑っているのか分からない表情をしてくれるだけ。


私は生まれて初めて、重い病気にかかってしまうと、人は元には戻れないという現実を知ることになります。


その後、祖母は特別養護老人ホームの手厚い介護を受けながら、8年間生き続け、最期は多臓器不全により88年の人生の幕を閉じました。

祖母の葬儀の時、親戚家族たちがこぞって祖母に対してこう言っていました。

「88年も生きたんだから満足やろ」、「最後は8年も寝たきりで楽したんだからいいだろう」、「長生きでいい人生だっただろう」など、自分たちの勝手な解釈、価値観が飛び交っていました。


大好きな祖母が勝手なことをあれこれ言われているように聞こえた当時の私は、「88年生きたからいいとか、寝たきりが楽だとか、そんなの本人しか分からないだろ!」と、憤りを感じていた事を覚えています。


祖母がどう生きたかったのかは、祖母の心しか知りません。

「長生きしたから幸せ者」という、生き残っている人たちの「決めつけ」は、亡くなった人への敬意があるようでないのです。


その言葉の中には、生き残った自分たちの自己満足や自慰の意味合いしか、私は感じません。

故人を敬うのであれば、何歳で亡くなろうが「無念さ」があったのではないかという、もう1つの側面にも目を向けてあげる必要があると思うのです。


祖母がどう生き、どう終えたかったのか。

人生を閉じるということは、その直前には安楽と苦痛の両方の感情があるものではないでしょうか。

本来「もう充分」かは本人が決める事

話は私が働いている高齢者福祉の分野での話題に戻ります。

担当している80代、90代の方々が亡くなると、「もう充分に生きたからいいだろう」などと言うケアマネさんが時折います。


しかし、先程の私の話と同様に、何をもってして他者が生きることを「充分」と決められるのか。


そもそも、「これ以上はもういいだろう」という言葉が出てくる段階で、対象者に対して上から目線なような気がしてならない。「私はまだ死なないから」という、他人事的な余裕を感じるのです。

長生きについての評価や価値観は、人によってまちまちですよね。

100歳以上生きてもいいと言う人がいれば、高齢者になる前に亡くなる方が幸せだと言う人もいます。


それと同じに、「80、90まで生きたんだからもう死んでもいいだろう」と言う人たちがいるならば、「長生きするな!65歳になる前に亡くなってしまえ」と思う人もいるはず。

「80年生きたからもういい」という考え方は、早死には許せないけど、老いたら死んでもいいと言ってる事と同じ。


ある1つの命の存在を否定しているのです。


あなたのその考え、次は子供さんがあなたに対して適用しますよ。

老いて死を意識するようになった時、あなたが自分の子供からそう言われたらどんな心境になりますか?

生きたい意欲の有無を年齢で決めるな

生きていいのか、生きなくてもいいのかを年齢で勝手に決めているような言い方が、気になって仕方ない私。

その原因は、私自身の死への恐怖感にあります。


とにかく、永遠に目覚めない『無』の状態になる事が怖いのです。

そこには、私が「あの世」をまったく信用していないという理由もあります。


さらに、生まれ変わりも何もないということが『真実』だと確信を持っている私。

そして、私と同じような想いを抱きながら最期を迎える人の怖さ、無念さもあわせて想像できるのです。

そういったことから、人の感情に寄り添うのであれば、本人の亡くなることの恐怖、無念さの観点にも目を背けてはいけないと思うのです。


しかし、そう思うと、生き残された私たちが辛くなるという意見があるでしょう。

だからこそ、自分たちを慰める目的で、本人が「長生きしたからもう充分だ」と思っているかのようにしたい・・・。


でも、故人に寄り添うのであれば、生きた年数で本人の心境を決めつけるのではなく、その人がどう生きて来たかを振り返り、満足以外の悔しさ、無念さも含めて偲ぶべきです。


生きる事に執着し、死に対して最期まで抵抗する姿も、人としてのたくましさを見るようで素晴らしいと思います。


「もう死んでもいい」なんて思っている人に出会ったら、そうならないように助言したり、守ってあげたりしますよね。

それが高齢者相手となれば、「もういいだろ」となってしまうのです・・・。


でも、高齢者だって、死なずに生き続けたいと思う人が多いはず。


そして、その思い虚しく最期を迎える・・・。

何歳になっても、死の瞬間は無慈悲だと思う人がいるのではないかと考えると、生きる権利を年齢の数で軽くみたりする事に、何か違和感を持つ私なのでした。


それでは!
以上、弥津でした。

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