信仰するなら自分だけの宗教を作って信じる方がいいと思う私の理由

こんにちは、弥津です。

精神的に不安定になっている私に、「信仰は心の平穏を得るのにいい」という話を知人からいただきました。

でも・・・

弥津
弥津

どんな宗教もお金が必要だったり、禁止行為やら集会があったりで・・・正直ストレスになりそう。

そこでふと私が考えたのが

既存の宗教に入信しないと、『宗教を持つ』ってことにはならないの?

そこで今回は、心の平穏を得るための『宗教のあり方』について、私の考えをお話ししたいと思います。

この記事では、『信じることで心が落ち着くのであればその対象は何でも良いじゃないか』という自由な宗教の考え方が分かります。

以前、私が「無信仰もある意味で信仰だ、このヤロー」と自分勝手な事をほざいた記事はこちらです。

この記事では、「信じるべきものはない。信じるべきは自分だ」、あるいは「祖父母のような亡くなった愛する親族を神仏として信仰する」といった既存の宗教にとらわれない自由な信仰でいいのではないかというお話をしたかと思います。


しかし、少し心に余裕があるときはこれでいいのですが、今の私のように精神的に病みがちな場合は、これでは心穏やかにはならないことを知りました。

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自分だけの宗教を作って信じる方がいいと思う私の理由

祈りは心を穏やかにするといいます。


ただ・・・何に対して祈るのか。

そもそも祈るにしても、「信じるべき、人智を超えた存在」が必要なのでしょうか?

自分は「何」を一番信じられるのか

ケアマネジャーをしている私ですが、担当する高齢者の中に熱心な信仰を持っている方は少なくありません。


特に、私が訪問のたびに影響を受けるのが、ある敬虔なクリスチャンの女性。

熱烈なクリスチャンとなると私に入信を勧めそうなものですが、その方は違います。


たしかに、キリスト教の教えに基づくお話はされるのですが、祈る対象は「なんでもOK」という考え方を持たれています。


その考えは私もまったく同感。


キリスト様とキリスト教における神様は凄い!と思えるのであれば、それを信じて祈ればいい。

しかし、私は

弥津
弥津

神様は過去にこんなスゴイことをしたとか、こんな超パワーをもっているとかいう、おとぎ話のような神様エピソードには引いてしまう・・・。

このように他人の作った神やそれにまつわるお話は信じないタイプです。


現物主義というのか、実際に生きて存在を確認できた人しか信じないのです。


例えば、私の場合は私を心底可愛がってくれた亡き父方の祖母。

そして、同じく可愛がってくれた亡き母方の祖父。

私は既存の神仏を信じないくせに、この祖父母とはどこか不思議な力で繋がっているはずだと信じています。

信仰対象はすでに心の中に存在する?

教祖が実在する新興宗教は多くみられますよね。

その教祖自体が特殊なパワーを有した神のような存在だと主張する宗教もあります。


先程もいいましたが、ただそこまでいくと私的には信じるに値しない。

教祖に人智を超える力があるからって、それに何を求めてるんだって思ってしまいます。


その超パワーをいただいて病気を治したい、生活が豊かになる運をいただきたい・・・そんなところなんでしょうが。

でも、宗教を持っている方の中で少ない年金からお布施を捻出し、生活費が足りない方も見受けられます。

弥津
弥津

宗教を持つがあまりに貧乏生活を加速させてしまっている高齢者を多くみてきた私・・・とっても違和感が。

そんな私の宗教観は以下のような感じです。

私の信じるべき存在の基準は、『生身の人間が生身の努力・慈悲でいかに人を救ってきたのか』。

超パワーなんて必要なくて、いかに優しく愛情を注いでくれたのかが、その『存在』を信じる要素なのです。

そういう意味では、亡き祖父母が私にとっての信仰の対象なのだと気づきます。


たしかに、祖父母と何をした、どうしてくれたなんてエピソードを思い出すと寂しさも感じますが、ホッコリとした気分にもなりますし。


祖父母のことを思い返すことで癒されるのであれば、それが私の「ひとりミサ」なのかもしれない。

もしかしたら、無意識のうちに私は心の中に『マイ宗教』が出来上がっている?

あと、それに私自身がどう向き合っているのかの問題なのかもしれませんね。

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信じられる亡き家族を信仰すればそれでいい

以前から私は

弥津
弥津

祈りたい時に祈ればいい。自分勝手信仰でOK。

と思ってきました。


しかし、『祈る』と『お願い』は違いますよね。

私が自分勝手に祈ればいいというのは、本来ただの困った時の身勝手なお願いにすぎないのかもしれません。


心の平穏を求めるのであれば、祈りによって「今日もこれで大丈夫だ」と信じられるルーティンとなるのがベストかと。

ようするに、単発の祈りでは心自体が信じることを習慣化できないのです。

亡き祖父母の姿を思い浮かべ、生前に受けた恩恵を回顧する。

そして、その恩に対しての感謝を会話するように心でささやく。

ときには、お願いごとだってしていいでしょう、だって生前にもお願いごとを祖父母にしてましたからね。


祈ることは手を合わせなくても、『心の対話』でも祈りに通じると私は思います。

それで心が落ち着くのであれば、もはや『宗教』なんだと私は考えるのです。

長く続ける習慣とするなら、私は生前も亡くなった後も存在をイメージできる、思い出豊かな人を信仰したい。


自分の中に無意識に作られている信仰を自覚して、心寄せることをルーティン化すれば、それこそ最高の信仰を得たことになるのでは。


信仰は自分で作れる。

毎回、心の中にある信じる存在に語りかければ、気づきがあるかも。


それ気付きこそ、お告げかもしれませんね。


それでは。
以上、弥津でした。

【大切な人への思いはいつまでも】

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