信仰するなら自分だけの宗教を作って信じる方がいいと思う私の理由

こんにちは、弥津です。

アラフォーになって何かと心が病みやすくなった私。

将来への絶望感から、この世で生きる意欲も失いがちに。

そんな時、ある方から信仰は心の平穏を得るにはいいという話をいただきました。

今回は、心の平穏を得るための宗教について、私の考えをお話します。

以前、私が「無信仰もある意味で信仰だ、このヤロー」と自分勝手な事をほざいた記事はこちらです。

この記事では、「信じるべきものはない。信じるべきは自分だ」、あるいは「祖父母のような亡くなった愛する親族を神仏として信仰する」といった既存の宗教にとらわれない自由な信仰でいいのではないかというお話をしたかと思います(たぶん)。


しかし、少し心に余裕があるときはこれでいいのですが、今の私のように精神的に病みがちな場合は、これでは心穏やかにはならないことを知りました。


祈りは心を穏やかにするといいます。

ただ・・・何に対して祈るのか。


そもそも祈るにしても、「信じるべき、人智を超えた存在」が必要なのでしょうか?

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自分は「何」を一番信じられるのか

ケアマネジャーをしている私ですが、担当する高齢者の中に熱心な信仰を持っている方は少なくありません。


特に、私が訪問のたびに影響を受けるのが、ある敬虔なクリスチャンの女性。

熱烈なクリスチャンとなると私に入信を勧めそうなものですが、その方は違います。


たしかに、キリスト教の教えに基づくお話はされるのですが、祈る対象は「なんでもOK」という考え方を持たれています。


その考えは私もまったく同感。


キリスト様とその神様は凄い!と思えるのであれば、それを信じて祈ればいいのですが、私は他人の作った神やそれにまつわるお話は信じないタイプです。

現物主義というのか、実際に生きて存在を確認できた人しか信じないのです。


例えば、私の場合は私を心底可愛がってくれた亡き父方の祖母。

そして、同じく可愛がってくれた亡き母方の祖父。


神仏を信じないくせに、この祖父母はどこか不思議な力で私と繋がっているはずだと信じています。

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信仰対象はすでに心の中に存在する?

実物があるものを信仰する宗教って、新興宗教の中に多くみられますよね。

教祖自体が特殊なパワーを有した神のような存在と主張する宗教もあります。


ただ、そこまでいくと私的には信じるに値しない。


私の信じるべき存在の基準は、『生身の人間が生身の慈悲でいかに救ってくれたのか』。


超パワーなんて必要なくて、いかに優しく愛情を注いでくれたのかが、その『存在』を信じる要素なのです。


そういう意味では、亡き祖父母は私にとっての信仰の対象なのだと気づきます。

たしかに、祖父母と何をした、どうしてくれたなんてエピソードを思い出すと寂しさも感じますが、ホッコリとした気分にもなりますし。


祖父母のことを思い返すことで癒されるのであれば、それが私の「ひとりミサ」なのかもしれない。

もしかしたら、無意識のうちに、私は心の中に『マイ宗教』が出来上がっている?


あと、それに私自身がどう向き合っているのかの問題なのかもしれませんね。

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信じるものと対話の習慣を

以前から私は「祈りたい時に祈ればいい。自分勝手信仰でOK」と思ってきました。


しかし、『祈る』と『お願い』は違いますよね。

私が自分勝手に祈ればいいというのは、本来ただの困った時の身勝手なお願いにすぎないのかもしれません。


心の平穏を求めるのであれば、祈りによって「今日もこれで大丈夫だ」と信じられるルーティンとなるのがベストかと。

ようするに、単発の祈りでは心自体が信じることを習慣化できないのです。


亡き祖父母の姿を思い出し、会話するように心でささやく。

祈ることは手を合わせなくても、『心の対話』でも祈りに通じると私は思います。


長く続ける習慣とするなら、私は生前も亡くなった後も存在をイメージできる、思い出豊かな人を信仰したい。


自分の中に無意識に作られている信仰を自覚して、心寄せることをルーティン化すれば、それこそ最高の信仰を得たことになるのでは。


信仰は自分で作れる。

毎回、心の中にある信じる存在に語りかければ、気づきがあるかも。


それ気付きこそ、お告げかもしれませんね。


それでは。
以上、弥津でした。

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